LOGIN珠希が帰宅したとき、三板は夕食の支度をほとんど終えていた。 「あとは雪臣さんがお戻りになってから、お魚を温め直しますね」 「あっ、えっと……三板さん。今日は、私が温め直します」 三板が不思議そうに振り向いた。 「それと、食器の後片づけも……。雪臣くんが帰ってきたら、夜、一緒に甘いものを食べる約束をしていて……」 今夜はもう一度、雪臣と向き合うために、二人で過ごしたかった。 三板はそれ以上尋ねず、にっこりと笑った。 「それは失礼いたしました。では、どうぞごゆっくり」 「え、いや、そういう意味じゃ――」 「明日の朝、また参ります」 言い終える前に、三板は手早く帰り支度を済ませてしまった。 「なーんか勘違いされたかも……」 珠希が頬を掻きながら苦笑を浮かべた。ただひとまずは、雪臣とじっくり過ごす時間が確保できたことに安堵していた。 それから間もなく、玄関の扉が開いた。雪臣だ。すぐに出迎えると、彼の右手に小さな紙袋を見つけた。 雪臣は玄関に上がるなり、珠希の後ろへ目を向けた。 「……ただいま。三板は」 「おかえりなさい。今日は三板さんに先に帰ってもらったの」 「……そうか」 少し戸惑ったような顔を見せたものの、雪臣は何も尋ねてこなかった。 珠希の視線が雪臣の手にある紙袋へ移る。 「ねぇ、もしかして、それ……」 「シューだ」 やはり、シュークリームとは言わないらしい。 「ふふ。約束、ちゃんと守ってくれてありがとう。お風呂も済ませてから一緒に食べよっか」 少しだけ頷いた雪臣が、紙袋を珠希へ渡した。 + + + 夕食を終え、それぞれ入浴も済ませた頃には、時計の針は十時を回っていた。 珠希は冷蔵庫から箱を取り出し、紅茶と一緒にリビングへ運んだ。 昨夜のことが浮かび、一瞬、足が止まる。別の場所でも食べられる。けれど、今この場所に座らないと、これから先もこのソファを避けるようになる気がして、嫌だった。 雪臣は昨夜と同じく、ソファの右側に座っていた。ただし、
……昨夜あったことについて、雪臣と話し合っていない。けれど、今朝の様子を見て、彼が昨夜の行動について、ものすごく悔いていることは痛いほど伝わってきた。それだけで、珠希にとっては十分に思えた。傷つけられたわけではない。 蒸し返さずに、これまで通りでいることを選んでしまった。それで良かったのかは分からない。 ――雪臣くんとなら、この一年、協力しあえると思う。 それでも、あの言葉は嘘ではない。 + + + 今朝のHIMURO MOTOMACHIは、いつになくざわついていた。 珠希と雪臣の入籍が、社内に知らされたのだ。 瀬原が運転する車で会社へ向かう途中。社長室にも、氷室グループ各社や取引先から祝電や花が届いていると瀬原から聞いた。さらに、氷室家でも親族を集めた祝賀の席を調整していると、雪臣が言っていた。 挙式は、氷室百貨店の周年記念を控えて多忙であることを理由に、先送りにしている……しかし、本当の理由は別にある。 一年後には終わる結婚のために、式を挙げるわけにはいかない――それは入籍以前から、雪臣と何度か相談していたことだった。 「珠希さん、おめでとうございます」 会社の中へ入ると、まだ入社して間もないというのに、数えきれないほどの祝いの言葉が飛び交った。お礼を言うたびに、胸の奥に棘が刺さっていく。 珠希の左手にあるマリッジリングも、注目を集めていた。 永遠の愛を誓った指輪――ではない。けれど雪臣と何度も話し合い、二人で作り上げたものに変わりはなかった。 ――この指輪の、その先を見てみたくなった。 雪茂に言われたことが、珠希の中に残っていた。 + + + 「それで、用件は?」 午後。 打ち合わせスペースで、腕を組んだ不二子が珠希の前に座っていた。隣には、少しだけ時間がとれた雪臣もいる。珠希はテーブルに、自分と雪臣のマリッジリングのデザイン画と資料を広げた。 「……この指輪を、HIMUROのブライダルの商品として展開できないか相談したくて」 「――え?」 雪臣が驚いたように珠希の顔を見た。 「
扉を閉めても、下の階からテレビの音が聞こえていた。 雪臣は左手で杖を握ったまま、しばらく動けなかった。 ――何を、した。 この手が、珠希の頬に触れた。肩に手をかけて、顔を近づけた。 彼女は動かなかった。いや、きっと動けなかった。こちらを見たまま、何も言わなかった。その顔を思い出すと、杖を持つ手に力が入る。 明日、甘いものを買う話をしていたはずだ。 自分の言ったことに対して珠希が笑って、それが嬉しかった。けれど、単に嬉しいだけではなく、別の気持ちも同時に湧きあがった。 ベッドへ向かおうとして、イーゼルの前で足が止まった。 数日前から描き始めた、描きかけの絵の中の女性と目が合い、雪臣は思わず視線を落とした。 珠希にこの部屋の中を見られかけたときは、生きた心地がしなかった。こんなものを見せられるはずがない。イーゼルに布のカバーを被せ、フリンジを整える。 雪臣は壁際の収納棚に手を伸ばした。薄紙とデッサン用紙が数えきれないほど重なり、引き出しの底は見えない。 その棚にある絵は、どれも大学時代から、自分の手で描き上げてきたものだった。描かれているのは、どれも今イーゼルにある絵と同じ女性だ。 一枚ずつ確かめる必要はない。雪臣は重なりの中ほどへ指を入れ、何枚かを持ち上げる。その下から、一枚の紙を抜き取った。 そのまま椅子に腰を下ろし、杖を脇へ置く。 「…………はぁ」 長いため息が漏れた。 デッサン紙の左側には、ベンチに腰かけ、水色の服を着た黒髪の珠希が、少し顔を上げて描かれている。その隣は、白いままだった。鉛筆を当てては消した下描きの跡だけが、紙の表面を荒らしている。 ――これだけは、最後まで描けなかった。 描けないまま、捨てることもできないでいる。 かつてこの紙の端に記した九月九日――涙で滲んだその日付を、親指でなぞる。乾いた紙には、今もわずかな波打ちが残っていた。 窓から入ってきた秋めいた風。笑い声。水色のパジャマで、こちらを見上げた珠希。 今夜の彼女の髪は、色もこげ茶で、長さも短い。この絵とは違う。それなのに、あの顔を見た
午後は、いつもどおりだった。 役所と銀行での手続きを終えたあと、二人とも出社し、雪臣は会議へ、珠希はデザイン部へ向かった。帰宅して夕食をとり、順にお風呂へ入った。特別なことは何も起きていない。 ――私、今日本当に、結婚したんだよね? 氷室珠希。今日一日、あらゆる書類にその名を書いたが、何が変わったかと聞かれたら、どうにも答えが浮かばない。入浴前に外した指輪は、寝室のケースにしまってある。今夜はもう外へ出る用事もない。家政婦の三板も帰宅した。もう、誰かの前で雪臣の妻として振る舞う必要はない。なにもついていない左手を見ると、より一層入籍した実感が薄れた。 水色のパジャマに身を包み、珠希はリビングのソファに座ってテレビをぼんやり眺めていた。隣では、雪臣がタブレット端末で仕事の資料に目を通している。彼の薬指をちらりと見ると、今夜もやはりマリッジリングがあった。彼もお風呂を済ませているはずなのに、また嵌め直したのだろうか。それとも、入浴中も外さなかったのか。指輪をつけたまま過ごす人もいるが、彼がいつもつけているサファイアのピアスは、毎晩必ず外していることに気がついた。そのことが、少し気にかかった。 二人の間に会話はない。しかしテレビの中で芸人が何か言うたび、部屋の静けさを紛らわせるように賑やかな笑い声が響いた。 少し前に開けておいた窓から、やわらかい風が入ってくる。入浴後の火照りも、もうすっかり引いていた。 「九月に入ったからか、日暮れのあとはもう結構涼しいね」 外はすっかり姿を変えて、昼間の日差しからは想像できない、秋めいた夜のにおいがした。それでも、夏が終わったと言い切るにはまだ早い。庭では虫が鳴いている。 テーブルの上にタブレットを伏せた雪臣は、なにも言わず、風に揺れるカーテンをじっと見ていた。 「雪臣くん、寒いの?」 「…………いや」 雪臣は膝の上で手を組んで、ほどき、そしてまた組んだ。何か言ってくるのかと思ったが、彼は結局なにも言わずに、今度は黙ってテレビの方へ顔を向けた。 「……じゃあ、そろそろ寝ようかな」 言ってから、もう一度、雪臣の左手を見た。 ……このまま、おやすみ、と別々の部屋へ
役所の戸籍課は、隣の会話まで聞こえそうなほど静まり返っていた。窓口の前では、手続きを待つ人たちが間隔を空けて座っている。珠希と雪臣も並んで腰を下ろし、番号が表示されるのを待っていた。 婚姻届を提出するためだ。 九月九日。なんの記念日でもない、普通の平日。ただこの日、雪臣が午前中に予定を空けることができたから、入籍日が今日に決まっただけ……という話だった。 ――一年限りの結婚だもん、ね。 斜め前のソファに座る男女をなんとなく眺める。男性の肩に頭を預ける女性の、幸せそうな表情。彼らは今日、なにか特別な日なのだろうか。例えば、交際を始めた記念日とか。珠希の誕生日に合わせて、直人と婚姻届を出しに行った日のことをぼんやりと思い出していた。 「そろそろ呼ばれそうだね」 番号札に目を落として、珠希が呟いた。左手には、完成したばかりのマリッジリングが光っている。 今朝、家を出る前に、珠希はその指輪をそっと左手の薬指に通した。 仮初の夫婦であることを周囲に悟られないよう、外では自然な夫婦として振る舞う。それは契約書にも記された、二人の約束だったからだ。 ……けれど、少しだけ引っかかっていることがある。 あの日、雪茂の前で指輪を嵌めてから、雪臣が家の中でもそれを外しているところを、珠希は一度も見ていないのだ。 ――契約結婚のはずなのに。雪臣くんは、誰も見ていなくてもマリッジリングを外さない。 つけ外しが面倒なのだろうか。珠希は雪臣の左手をじっと見た。 「雪臣くん、順番が来る前に、もう一度だけ書き間違いがないか確認してもいい?」 珠希が先に記入を済ませ、雪臣に預けていた婚姻届は、今、彼の鞄の中に入っている。 「…………」 「雪臣くん?」 「あ、あぁ」 「婚姻届、確認してもいい?」 考え事でもしていたのか、上の空だった雪臣にもう一度言う。 雪臣はすぐに鞄から婚姻届を取り出した。珠希が預けたときは空欄だった夫側にも、しっかりと記入されている。 そのときふと、雪臣の生年月日が目に入り、思わず「え」と声が漏れた。 「雪臣くん、今年で二十九歳な
氷室家の本邸を訪れるのは、顔合わせの日以来だった。そのときはまだ、HIMUROへ入社もしていなかった。ほんのひと月ほど前の出来事だというのに、なんだか懐かしく感じてしまう。 応接室には、雪臣の祖父・雪茂だけでなく、父の秋夫と継母の日美呼、そして異母弟の悠乃介も揃っていた。以前、日美呼にも実力を見せてもらいたいと言われていた以上、全員の同席は予想できたことだった。 雪臣が二人で必ず作り上げると宣言した『期待を超えるジュエリー』を、ようやく形にすることができた。雪茂がどう評するかは分からない。けれど、雪臣と二人で作り上げた、全力の二本に変わりはなかった。 ソファの隣へ腰かけていた雪臣が、テーブルの中央に小さなリングケースを置いた。 「これが、僕と珠希さんの答えです」 雪臣がそっと蓋を開く。 雪茂はすぐには手を伸ばさなかった。身を乗り出し、ケースの中をしばらく眺めている。 「おお、これは……! 雪臣、でかした――」 最初に口を開いたのは、秋夫だった。その声に被せるように、日美呼が喋り出す。 「さすが、雪臣さんと、元・INUI Jewelryの珠希さんですわね。一本ずつはとても素晴らしい。……しかし。邪道とまでは言いませんけれど、これでは、老舗・HIMURO MOTOMACHIに相応しい、二本で一組の結婚指輪に見えないのではないかしら」 雪臣と何度も話し合い、互いの手に合わせて作った指輪だ。形が違うことにも、説明できる理由がある。 「同じ形に揃えることが、私たちにとっての一組ではないと考えました」 珠希は、リングをひとつずつ示した。 「私のリングは、婚約指輪の石座に当たらない形です。雪臣さんのリングは、杖を握るときに負担になりにくい幅と厚みにしました。それぞれ一本で完成し、並べると二つの曲線が新しい流れを作ります」 「なるほど。つまりはお二人だから成立する特注品という意味ですわよね? ねぇ、あなた」 「あ、あぁ……そうかもな……」 納得していない顔の日美呼が秋夫に視線を向ける。秋夫は困ったように眉を下げていた。 「HIMUROのデザイナーとしての実